稀釈化防止条項のしくみ
前稿では、転換請求権の入門編として、転換価額の調整のうち普通株式の変動に連動するものについてご説明しました。本稿では引き続き、転換請求権の仕組みについて、いわゆる稀釈化防止条項についてご説明します。
ここにいう稀釈化とは、優先株主である既存投資家の保有する株式の価値についての稀釈化を意味します。すなわち、例えば普通株式1,000株を発行している会社が投資家に対しA種優先株式を1株あたり1,000円で500株発行したとします。「優先株式の基礎」でご説明したとおり、当初の転換比率は1:1ですから、この場合、優先株式の発行要項には、転換価額1,000円と記載されているはずです。
ここで普通株式1株を2株に分割する株式分割が行われたとします。この場合、「転換請求権 その1」のとおり、転換価額は分割比率に応じて調整されますから、転換価額は500円となり、転換比率は1:2すなわち優先株式1株につき普通株式が2株発行されることになります。これによって、優先株主の普通株式ベースでの保有割合は会社分割の前後で変化がないことになり、保有する優先株式の1株あたりの価値も維持されることになります(実際には優先株式も2株に分割され、発行価額も調整される結果、転換比率は1:1のままであることは前回ご説明のとおり。)。
次に、別の例として、会社が次のラウンドでB種優先株式を1株あたり2,000円で500株発行したとします。「Pre Money or Post Money?」でご説明したとおり、この場合、投資家と創業者は、会社のプレマネー・バリュエーションを(1,000株 + 500株)×2,000円 = 3,000,000円と評価したことになります。すなわち、A種優先株式の普通株式転換ベースでの評価は1株2,000円にまで向上したことになります。
これに対して、会社が次のラウンドでB種優先株式500株をを1株あたり500円で発行したとしたら、どのようなことになるでしょうか。この場合、投資家と創業者は、上記と同様の理由により、その時点でのA種優先株式の普通株式転換ベースでの株式価値を1株500円と評価したことになります。
A種優先株主としては、このような株式価値の低下が自らのあずかり知らないところでB種優先株主の引受投資家と創業者との間で決められてしまってはたまりません。そこで、A種優先株主は、このような形で自らの株式の取得価額よりも低い価額で新規投資が行われる場合には、その時点のA種優先株式の転換価額を下方に調整し、普通株式転換ベースでの株式数を増加させることで、保有株式の価値の維持を図ることを考えます。このための仕組みが稀釈化防止条項(Anti dilution provision)と呼ばれるものです。
シリコンバレーで用いられている稀釈化防止条項には、大きく以下の3種類があります。
① フルラチェット方式(Full Ratchet Adjustment)
② ナローベース加重平均方式(Narrow-based Weighted Avarage Adjustment)
③ ブロードベース加重平均方式(Broad-based Weighted Avarage Adjustment)
これに④調整なし、を加えると、①から④にかけて稀釈化防止の強さが小さくなっていきます。すなわち、投資家にとっては①から④の順番で望ましさが下がっていき、創業者にとっては①から④の順番で望ましさが上がっていくということになります。
では、それぞれの内容について説明していきましょう。
まず、①フルラチェット方式について。ラチェットとは歯車と歯止めを組み合わせた機構で、一方向にしか動かない仕組みを持ったものをいいます。機械いじりをしたことがある人であれば、ラチェットレンチが思い浮かぶかもしれませんが、そのラチェットです。稀釈化防止条項が転換価額を下方にのみ調整することから「ラチェット」の用語が用いられているのだと推測しますが、ここでの関心は「ラチェット」の方ではなく「フル」の方です。
フルラチェット方式による場合、発行価額を下回る価額で新たな株式が発行される場合、転換価額は、その新たな株式の発行価額にまで低下し、調整されます。例えば、先ほぼの例で言えば、A種優先株式の転換価額1,000円は、B種優先株式の発行価額である500円に低下することになります。すなわち、これによってA種優先株主の普通株式ベースでの保有株式数は従前の2倍の1,000株ということになります。
次に、②③の加重平均方式について、ご説明します。加重平均方式は、以下の計算式によって転換価額の調整を行うものです。
(調整後転換価額)=(調整前転換価額)×[{(既存株式総数)+(新規投資価額/調整前転換価額)}/{(既存株式総数)+(新規発行株式総数)}]
つまり、分母に投資後の実際の株式総数を、分子に新規投資を既存の転換価額で行ったとした場合の投資後の株式総数を置き、これをダイリュートした分の調整係数とみなして転換価額を調整するものです。
ナローベースとブロードベースの差は、上記の式のうち「既存株式総数」をどのように決めるかについての差です。
すなわち、ブロードベースでは、いわゆる完全稀釈化後の株式数を「既存株式総数」とします。つまり、その時点で行使されていないストック・オプションはすべて行使されたと仮定し、優先株式はすべてその時点の転換比率で転換されたものと仮定して、その時点の普通株式の最大発行数を「既存株式総数」として上記算式を計算します。
これに対して、ナローベースとは、「既存株式総数」に含まれる株数はブロードベースよりも少なくなります。つまり、完全稀釈化ベースではなく「既存株式総数」を決定します。多くの場合、潜在株式を「既存株式総数」に含まないようにし、発行済の普通株式の数に、優先株式の転換後ベースの数を加えた数を「既存株式総数」とみなして転換価額を調整する方式がとられます。
上記の式で「既存株式総数」は分母と分子の双方で用いられています。この場合、ナローベースとブロードベースのどちらのほうが調整係数が小さくなるでしょうか。すなわち、
調整係数(A+B)/(A+C)について、
稀釈化が起きている状況ではB<C
ですから、Aが大きいほどBとCの差の「効き」が小さくなり、調整係数は1に近づきます。したがって、ナローベースとブロードベースでは、ナローベースのほうが調整係数が小さくなり、調整が大きくなり(=フルラチェットに近づき)ます。
以上が稀釈化防止条項の概要です。
それでは、稀釈化防止の調整を実施するとして、上記の3つのうちどれをとるべきでしょうか。管理人もシリコンバレー勤務時代に先輩弁護士と議論しましたが、これについてはどれが正しいというものではなく、純粋にキメの問題であるという結論に達したことがあります。そもそもどうしてこのような加重平均によって算出される数値が調整係数として妥当といえるのかも、分かったようで分からないようなところがあります。
したがって、この点は、新ラウンドを迎えるにあたって見込投資家と創業者が十分に議論すべきところです。管理人が見た2006年頃のシリコンバレーでは、起業家が主導するA種優先株式ファイナンスの案件でブロードベース加重平均方式が採用されているケースが多かったように思います。調整条項なしではダウンラウンドに対する備えがないことになり、合理的な投資家は納得しませんので、起業家としては、一般的にはブロードベースを基準に交渉していくのが良いように思われます。